丸家に残る江戸時代からの風景から想うこと
前回のブログでは、丸家の屋敷神として、築山の頂上に祀られている金毘羅宮について書きました。今回は、その金毘羅宮が祀られている「築山」そのものについて、細かく述べていきたいと思います。
丸家の築山は、口伝では江戸時代の終わりにはできていたとされています。私が子供の頃には遊び場でもあったこの築山ですが、あらためてその姿を一つひとつ見ていくと、先祖がどのような想いでつくり、そして代々どのように向き合ってきたのか、想いを馳せることも多くあります。
屋根の高さほどある築山を、なぜつくったのか
築山の南側には、現在の丸園体験施設があります。ここは昭和40年に建築した住宅で、私が2歳の頃から住んだ2階建ての建物です。現在は内装をリフォームし、丸園の体験施設として活用しています。
その建物の2階の窓と、築山頂上に祀られている金毘羅宮がほぼ同じ高さにあります。したがって築山は、建物の1階屋根の最頂部と同じ程度と言えるでしょう。
地域の神社には、富士山信仰に基づく富士塚があります。しかし、屋根の高さに至る築山を持つ個人宅は、少なくとも私は他に見たことがありません。
築山周辺を見ると、もともと緩やかな傾斜地になっています。ですから、平地にすべての土を盛り上げたというより、もともとの地形を利用しながら、さらに盛り土をして一つの山として形成したのではないか。この推察は、私も親から聞いています。
現在のような重機もない時代です。もともとの傾斜を利用したとしても、さらに土を盛り、石を積み、木を植え、一つの山として造形する。どれだけの労力が必要だったのかを考えると、自分の先祖ながら驚きます。
植木、石積み、そして池――自然を凝縮した景観
築山全体には、多くの植栽があります。キャラ、サザンカ、榊、金木犀、モッコク、ツツジ、ドウダンツツジ、アジサイ、南天、楓、モミジ、馬酔木。そしてグランドカバーとして、竜のひげ、玉竜、ヤブランなど。多くの種類の植栽によって、築山全体が自然の姿を凝縮したような景観となり、季節の変化を愉しむことができます。
中には、私の祖母が丸家に嫁いできた大正11年にはすでにあったと伝え聞いている、樹齢100年を超える古木もあります。一方で、近年は傷みが進み、植え替えた箇所もあります。少しずつではありますが、築山の姿は変化しているとも言えます。
築山には、瓦やレンガ、一抱えもある丸石などを使った土留めが各所にあります。頂上の金毘羅宮へ向かう導線には、大谷石の石段も設けられています。
この石段も、私が子供の頃にはしっかり安定していましたが、長い年月の中で土が流れ出るなどして、近年、私自身が、元気だった兄と一緒に修繕した箇所もあります。
そして、もう一つ考えておきたいのが「池」です。丸家には昭和40年まで池がありました。日本庭園では、築山と池を組み合わせて自然の風景を表現することがあります。そう考えると、丸家の先祖も築山と池を一体のものとして、庭全体を整えようとしたのではないか。私はそんなことを想像しています。
このことからも、丸家の築山は、金毘羅宮を祀る場所であると同時に、庭としての機能も併せ持った場所だったのではないかと考えています。
その池は、昭和40年に住宅を新築する際、建物面積を確保するために埋めることになりました。そこで建てられた建物が、現在の丸園体験施設です。現在、その北側の縁側から外を見ると、築山を見上げる格好で、その姿を一望することができます。
金毘羅宮と馬頭観音――築山は信仰の場でもあったのではないか
築山の頂上には金毘羅宮が祀られています。その経緯について記録は残っておらず、金毘羅宮についての私の推察は、前回のブログで詳しく書きました。
そして、金毘羅宮へ向かう導線上、築山の中腹には馬頭観音があります。そこには「嘉永元年」の刻があります。昔の農家にとって、馬は一緒に生計を立てる大切な存在でした。馬頭観音は、そうした農耕馬を供養し、感謝する対象でもありました。
頂上には金毘羅宮があり、そこへ向かう途中には馬頭観音がある。私は、この配置を単なる偶然とは考えにくいように感じています。
先祖は、それぞれの信仰対象を個別のものとして考えるのではなく、意図して築山という一つの場所の中に置いたのではないか。そして、木を植え、石を積み、自然を凝縮した景観をつくることと、神仏に祈ることもまた、現在の私たちが考えるほど明確に分かれていなかったのではないか。
つまり丸家にとって築山は、単に庭として美しく見せるための造形物ではなく、大切な「信仰の場」としての意味も持っていたのではないか。今ここに残っているものを見ていると、私はそれを推察するだけではなく、実感として感じています。
先祖から私へ続く「時間の連続性」
繰り返しになりますが、この築山は、江戸時代の造成当時の姿をそのまま保存してきたものではありません。
規模や高さは維持しながらも、木が傷めば植え替え、土が流れれば補修し、石段が崩れれば直す。そうやって長い年月をかけ、丸家の先祖が少しずつ手を加えながら維持してきたものです。私の両親もそうしていました。そして、それは現在も続いています。
この規模の築山を私一人で管理することはできません。
妻や長男にも協力してもらいながら、年間を通して除草や剪定をしています。急斜面もあるため、安全に注意しながら作業しなければならない場所もあります。
そう考えると、この築山自体も、自然物として少しずつ「進化」しているような気持ちに、私自身がなってきます。庭木を剪定したり、草を取ったりすること自体は、景観維持として多くの家で行われていることだと思います。
しかし、私がこの築山と向き合うときには、少し違う感覚があります。
今、自分がしていることと同じようなことを、先祖も家族で協力しながら、代々続けてきたのであろう。草を取り、木を剪定し、崩れたところを直し、次の世代へ渡してきた。そのことに想いを馳せることが、私はよくあります。
子供の頃には、私には遊び場としての存在だった築山。その頂上には金毘羅宮があり、中腹には馬頭観音があり、100年を超える木も残っています。今では私が、その場所を管理する側になりました。
そこには、自分一人ではコントロールしきれないほどの「時間の連続性」が流れているように感じます。私が始めたものではありません。けれども今は、私が向き合う番になっている。
この築山を管理することは、私にとって、逃れることのできない責任として受け止めています。そして、この築山を見ていると、私が幼い頃、祖母が私に言ってくれた言葉を思い出します。
「この規模の築山のある家は、この野田村中探しても無い。そんな家に生まれたのだから、お前は誇りをもって生きていけ」※祖母のいう「野田村」とは、丸家のある地域のことです。
祖母は大正11年に丸家に嫁いできました。祖母自身も、嫁いできてから長い年月、この築山と向き合い、維持してきた一人です。
ですから、この言葉は単に「大きな築山がある家だから誇りを持ちなさい」という意味だけではなかったのではないかと、今の私は感じています。
先祖から受け継いだものを守り、次の世代へ渡していく。
そのことを実際に続けてきた祖母だからこそ、幼い私に出てきた言葉だったのではないか。
今、自分自身が築山を管理する立場になって、私はあらためてそんなことを考えます。
そして、この築山を見ていると、もう一つ考えることがあります。丸家の先祖だけが、このように神仏と向き合いながら暮らしていたのだろうか、ということです。農村では豊作を祈り、農耕馬を供養し、家の安全を願い、地域の神社を守ってきました。
各家の信仰と、地域の人々とのつながりは、どのように結びついていたのでしょうか。次回は、丸家の築山から少し視野を広げて、「農村の信仰と地域コミュニティ」について、私自身の経験も交えながら考えてみたいと思います。


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