100年の茶の木から見える、さいたま市の農村文化
- 5月14日
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埼玉県さいたま市。 現在では住宅地のイメージが強い地域ですが、かつてこの地には、お茶を育てる農村文化がありました。
丸園には、100年以上前から残る「日本在来種」の茶の木があります。
農薬不使用・無肥料で管理され、祖母が丸家へ嫁いだ大正時代には、すでに現在とほぼ同じ姿だったと伝えられています。
現在、日本で流通する多くのお茶は、戦後以降、味の均一化や生産効率向上を目的として品種改良されたものです。
一方、丸園の茶の木は、昔ながらの在来種として受け継がれてきました。
在来種は、株ごとに葉の形や香り、味わいが異なります。
均一ではないからこそ、多様な香味が重なり合い、奥行きのある味わいが生まれます。
また、百年以上生き続けてきた茶の木は、この土地の水や土の環境に適応しながら、深く根を張ってきました。
私は、「100年の根は、土地の時間を吸い上げている」と感じています。
さいたま市にも存在した「畦畔茶(けいはんちゃ)」
明治以降、日本がお茶を海外輸出するようになると、埼玉県南部でもお茶づくりが広がりました。
特に現在のさいたま市周辺では、農地の畦や屋敷周辺に茶の木を植える「畦畔茶(けいはんちゃ)」の文化が存在していました。
これは、狭山のような大規模茶園とは異なり、農家が暮らしの延長として育てていたお茶です。米や野菜を中心に生産しながら、農地の余白や垣根として茶の木を植え、自家用や換金作物として活用していました。
さいたま市周辺は、台地と低湿地が入り組んだ地形です。
そのため、大規模茶園よりも、畦畔茶としてお茶を取り入れることが、地域に合った合理的な選択だったのだと思います。
つまり、お茶は特別な産業というより、農村の日常風景の一部だったのです。
なぜ、その風景は消えたのか?
戦後になると、日本では大量生産に適した蒸し茶が主流となり、飲料の多様化も進みました。さらに、さいたま市南部では植木産業も発展し、多くの茶の木は抜かれ、植木の垣根へと変わっていきました。
茶の木が減ったことは、単なる農産物の変化ではありません。
農村風景そのものの変化でもあったのです。
現在、往時の茶の木がそのまま残されている場所は、さいたま市内でも非常に珍しくなっています。
なぜ丸園は「釜炒り茶体験」を行うのか
本来、この地域のお茶文化は「蒸し茶」でした。
しかし現在、昔ながらの蒸し茶づくりを体験として再現するには、大きな設備や長時間の工程管理が必要になります。
そこで丸園では、「釜炒り茶」という製法を通して、お茶づくりの本質を感じてもらう活動を行っています。
釜炒り茶は、鉄釜で茶葉を炒りながら仕上げる、日本では少数派のお茶です。
火加減、香り、水分、茶葉の変化。
自然の状態を見ながら、人の感覚で仕上げていきます。
私は、この時間の中に、「自然と向き合う感覚」が残っていると感じています。
茶の木から、地域を見る
丸園では、お茶を単なる飲み物としてではなく、「地域の歴史を伝える存在」として捉えています。
茶の木を見ることで、
昔の農家がどんな暮らしをしていたのか
どのように時代へ適応してきたのか
自然とどう向き合ってきたのか
を考えることができます。
もし皆さんの身近にも、古い茶の木や、昔から続く農村風景が残っていたら、その背景にある地域の記憶にも目を向けてみてください。
そこには、土地とともに生きてきた人々の時間が残っているのかもしれません。




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